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shokunin ❌ 間=真空間茶会(茶藝真師会)

先ず「茶を喫す」。それは「間」を知る余裕になる。

間とは「人間」「時間」「空間」の事と認識している。

人と人との関係性は複雑だ。

中々「唯、茶を呑む」とはならない。後々に効能という表現で「茶・花・香」を研究する様になるのは諸生諸事に振り回されているからだ。

y良い茶会を持ちたい、開きたいが高じて目的が欲になってしまうのも人の世の常。そうした気負いから離れて楽しく集う行動指針の中に普段茶会がある方が自然だ。

点前作法とは規律や戒律や規制や礼儀を当たり前の「思いやり」で理解しあえる事で、楽しいが広がってゆく。

​最近押し付けの茶会が増えた。

浄室とは必生無欲の関わり合いで成立する空間。つまり「空」だ。

空とは究極の虚しさだ。これ以上削ぎ落とせない物事心(ものごとこころ)を持って生き暮らす事だと思う。

彩(いろどり)を消せ無くせではない。心の位置が空である事だ。「見ざる・聞かざる・言わざる・思わざる」かも知れない。

それでいて楽しく、そして思いやれる事ではないかと思う。

​茶道の体系化の前に一服一銭という室町時代の売茶スタイルがあったが、「釜一つあればいい」と後に定義された事は偉大だ。

その精神で臨む茶会が真師会茶会。真師とは八相見据えて不動の構え、つまりすくっと立ち全てを受け入れ競わず、「有難い」を味わう事だ。

飽食の傾向にある人心では、到底辿り付けない妙味がある。

コンセプトでSHOSKUNINと書いたのは、素人玄人問わず「物作り」を通じて「心づくり」を研鑽している人の輪を愛でることを大切にしたいからだ。

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