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​artistic naturalist

花師のこと

 

話せば長い紆余曲折の歴史が小生にはある。

「職業華活け職人とその多岐に渡る表現方法」という総称。 

よって「立て花師」ではない。 

つまり「活ける、飾る、しつらう」等  時と場と参会者の意向に依る対応を、

「生け花の先生にお花を活けていただく」という伝統的流儀団体への依頼という

閉鎖的制約的美意識からの解放を定義した。

 

「華と書と写真」での表現を核として、

当初は自然あるがままと自己実現との考察を検討。

平成の今、二大勢力と言われる華道界のミックスこそ個人が目指す

「委ねる/瞑想からの自然体」に至るとして定義。

 「伝統伝承」と「自己実現」との狭間?独自?を思考。

個人に帰る思想をより進め、個人から離れるに迄意識を高めるとした。 

それが個から始まる全体と全体を知り、

個に戻るを実現できる唯一の手段としてのトレーニング方法(修養と儀礼) の

開発につながると創造。

 

作家活動としては・・・

「完成体の凛、不完全の粋」を明確に分けて創造する事を目指す。

 一つには家業の伝承華流儀「華道家元五景花栄心」つまり凛。

もう一つには「花師」ここには粋という不完全の美を求めた。 

 

指導方針は伝承花は御存知の通り

花師は活けた花形より立ち居振る舞いの実践。

つまり臨む姿勢の修養に基本を置く。 

 

結果的には「生け花は形を学ぶ事ではないのか?」との非難が飛び交うが、

「慣れ親しむ、感性を養う」事から始めなければ、

自然をあるがまま表現する象徴的な創作や後進の育成は出来ないと、

自分の経験から決意する。 

 

畳での生活が無くなり、必要に迫られないと言われるが、

発生は畳生活の為の感謝と美の創造だけではない。 

体系化された後の「生け花」を全ての原点と考えている人が多い。

 

これが花師を興した理由だ。 

 

究極の「花人」。個人の華道家。どちらも華で語る。

 

命名者は「清水南文の美意識は花からだけでは表現できない、美の領域がある」という判断があったからだと記憶している。 

もう20年以上前の活動開始の時(昭和50年代後半)のことだ。

 

 

 

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